【城・城跡13】 感状山城

  • 2015.05.07 Thursday
  • 13:00
2012年2月10日(金)晴れ

感状山城(かんじょうさんじょう)〔兵庫県相生市〕

のいの助評価:★★★★★ 星五つ

※好きな城:暫定ナンバー1


感状山城の名前の由来は、中世「赤松則祐」がこの山で「新田義貞」軍を凌ぎきり、赤松氏が足利尊氏に感状を頂いたことによるそうだ。
築城は鎌倉時代という説もあり、その他詳細は不明であるが、長い間、赤松氏の支城であったようだ。


まずは、外観

中世の山城らしく、どこに城があるのかわからない

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↑木々が薄くなっている上の部分が主郭

入口は、分かりやすく

城跡までは、登山道が整備されている

■入口

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■物見岩から主郭を見た様子

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物見岩の左手の先は、出曲輪がある

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■出曲輪の様子

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■南曲輪群

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南曲輪から町を見た様子

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■虎口の階段

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■本丸南の曲輪の様子

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本丸南の曲輪から本丸を見た状況

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本丸下の石垣

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■本丸の様子

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本丸は、意外に広く、平べったい

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基礎石がゴロゴロ残存しているので、

ここに建物があったのだろう

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■南側を望見した様子

向こうには、海が見える

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■東側の様子

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感想

この感状山城、今までに行ったことのある城の中で、一番興味深いし、好きだ

手つかずの、石垣や基礎石が何とも趣がある

基礎石の数が、相当数認められたので、大きめの建物があったのだろう

それと、こんな場所に井戸があったのは驚き

地元、九州の山の土は、粘りけのある軟らかい土なのに、この地方の山って、土が硬いのには意外だった

天守や曲輪跡には、草があまり生えた形跡ないし.....

事前の準備ができていなかったし、時間なかったので、ゆっくり見ることができなかったが、絶対また行くことにする


今まで、この城のこと早く投稿しようと思っていたが、後回しになった次第


では

【城・城跡12】 宇和島城

  • 2015.02.27 Friday
  • 13:00
2014年9月22日(月)くもりのち晴れ

宇和島城(うわじまじょう)〔愛媛県宇和島市〕

のいの助評価:★★★☆☆ 星三つ


宇和島城は、戦国期の「板島丸串城」を戦国末期に

宇和島に入った藤堂高虎が6年もの歳月をかけ、

近代城郭に築き上げたもの。


1609年、伊達政宗の長男秀宗が宇和島に入り、

城の名を「宇和島城」に改めたとされている。


二代藩主の伊達宗利時代にさらに大改修がなされ、

現在も残る天守閣もその当時のものだそう。


外観


宇和島市HPから

外観撮影したかったが、市街地からは

主郭部分は全く見えず、撮影できなかった



外観が分からなかったので、場内設置のイメージ図

にて外観を確認する↓

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自転車で、城の周りを一周して

登城ルートを探すが分からない

自転車で城の周りを三周ほどして、

やっぱり分からないので

お巡りさんに訪ねてやっと分かった


入口見つけて、登っていくが

やたらと雑木が多い

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写真改めてみると、ホント森かジャングルの中に

いる感じがする

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井戸のある井戸丸跡

どの城も井戸はなんか不気味

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周りが明るくなってきた

主郭下へ到達

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主郭下の石垣の状況

草が気になる

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階段は、当時のままで整形されていない様子

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ちらっと、天守閣見えた

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一の門

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これが現存天守(日本十二現存天守の一つ)

天守台の上に小さい天守閣がポツンと建つ

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天守の中

写真や肖像画が展示されている

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宇和島市内の様子

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すばらしい

階段、石垣も当時のままで、手が加えられていない



感想

宇和島城は、当時の状態のまま、手つかず

石垣、階段、天守閣周辺等々......


でも、登城途中の雑木や草があまりにも

野放し状態のような気がする

何十年か経ったら、雑木も大きくなり

大変なことになりそう


登城する観光客は、少なかった


では





 

【城・城跡11】 岡豊城

  • 2015.02.26 Thursday
  • 12:22
2014年9月21日(日)くもり

岡豊城(おこうじょう)〔高知県南国市所在〕

のいの助評価:★★★★☆ 星四つ


岡豊城は、詳しい創建は不明であるそうだが、

長宗我部元親の祖父の時代には、周辺勢力により

落城し、元親の父(国親)は、中村の一条氏を

頼っている。

一条氏の手助けで、岡豊城に戻った国親は、ここを

拠点として、勢力を伸ばしていった。

元親時代になると、1591年、桂浜付近に浦戸城を

築いて移ったため、廃城となったとのこと。


まずは、外観

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独立した山で

案外、標高が低い印象(標高は97m)

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貴重な航空写真

これは、分かりやすい

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頂上部の本丸(詰、曲輪)は、略三角形の形をしている

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これが、頂上部の礎石跡

ここにどんな建物が建っていたのだろう....

そして、ここに国親、元親親子も居たのだ

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↑ここは、二ノ段

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↑ここは堀切

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頂上部(詰)への斜面

傾斜は、比較的緩やかで、攻めやすい印象

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感想

この城は、ゲーム「信長の野望」で何十回も

攻め落としてるが、結構、耐久が高い


実際、どんな城かこの目で確かめたかったし、

国親、元親親子が拠点にしていた城ということで

城の規模や周辺の様子を見聞したかった


この目で見てみると、中世の山城とはひと味違い

戦国末期〜江戸初期に見られる平山城といった

印象


規模は、それほど大きいと感じなかったが、

四国を取り巻く環境や時代からすると、

相当立派な城であったに違いない


天守部その他、曲輪等には、石垣が見られなかったので、

他の城の建築に移築されたのかもしれないと、

勝手に想像した


では

【城・城跡10】高嶺城

  • 2015.01.19 Monday
  • 13:11
2013年7月1日(月)晴れ


高嶺城(こうのみねじょう)〔山口県山口市〕

のいの助評価:★★★★☆ 星四つ


高嶺城は、案内によると

大内氏最後の当主大内義長が毛利氏の侵攻に備えて、1557年に築いた

同年、義長は形成が不利となり、長門国に逃れたが、長府で自害する

義長が去った後、毛利氏は城を改修し、市川経好を城番とした

1569年に大内輝弘が山口に攻め入った際に、毛利氏はこの城の守りを固めて、寄せ付けなかった

1615年、一国一城令が出されたため、毛利氏は萩の指月城を残し、高嶺城、串崎城、横山城を破却し、1638年、高嶺城は廃城となった

高嶺城跡のある鴻ノ峰は標高338mの丘陵であり、城跡は頂上の主郭を中心に、四方に伸びる尾根に曲輪群が広がっている

主郭やその周辺の曲輪には、石垣が巡らされ、礎石や瓦片は発見されている

とのこと



外観




主郭にある案内



城郭の略図



主郭を下から撮影した状況



主郭部分の状況




主郭下の石垣の状況



井戸の状況



瓦片だと思う



途中の状況



曲輪の状況



曲輪が休憩所となっている場所もある



曲輪から麓を望む


感想

大内氏が撤退した後、毛利氏が江戸時代初期まで城番を

置いていただけあって、石垣や曲輪等の遺構がよく残っている


訪れた時期が7月初旬であり、ヤブ蚊がいっぱい

まとわり付いたので、駆け足で頂上まで登り、

写真を撮りながら、逃げるように下山した


再度、虫のいない季節にゆっり訪れたいと思う



では

【城・城跡9】丸亀城

  • 2015.01.17 Saturday
  • 23:27
2014年9月19日(金)くもり


丸亀城(まるがめじょう)〔香川県丸亀市〕

のいの助評価:★★★★★ 星五つ


丸亀城は、

室町時代初期、細川頼之の家臣奈良元安が
亀山に砦を築いき

豊臣時代に生駒親正が讃岐に17万石を与えられ、
高松に本城、亀山に支城を築いた

江戸時代に生駒氏、山崎氏を経て
1558年、京極高和が6万石で入る

以後、明治まで京極氏の居城

1660年に現在の三層三階建の天守が完成した

とのこと


まずは外観





丸亀城は、周りをお堀で丸々囲まれていた

平山城

ザ・城と呼べる外観!!


下から見上げてみると

天守があんなにも高い場所に

ホントあそこまで登るの…

ちょっと、いや、だいぶうろたえる(゜ロ゜)





なに考えてんだ俺(#`皿´)

登るに決まってる


自転車専用の筋肉になってて、坂道歩くの

マジヤバイ


でも、この石垣の素晴らしさ

どうでしょ…

いやいや、大変美しい

この反りは、熊本城の「武者返し」にも負けていない


江戸時代に30数年もの年月を掛けて

石垣を大改修したことだけある


お城巡りは、この石垣を見るのも楽しみの一つ




天守の全形

十二残存天守の中で一番小さいとか

さあ、中に入る


残存天守の中に入るには、生まれて初めて

緊張する ドキドキ…



骨組み、材料全てが木材だ

当たり前だがスゲ 本物だ

この黒光りした感じや、手彫り感が何とも

趣がある


あまりにも、緊張と興奮で内部の写真少ないよ

(帰って、確認したら2枚だけ…)

もっとバシバシ撮影しとけばよかった

超後悔(/。\)


外に出る



天守の周辺の状況



本丸の状況

綺麗に手入れされている



本丸から丸亀市内を望む

う〜ん 絶景

街でかいな


感想

初めての現存天守

天守は小さいが、石垣は圧倒された

この城がもし戦国時代に戦場となっていれば、

短期戦は◎

超長期戦×

なぜなら、短期戦ならば鉄壁な城

どこからも攻められない

しかし、超長期戦に持ち込めれば、

落とすことは可能だと思う(ただし、大群で囲むことが条件)

城の周りは、平地なので周りを囲まれたら、

救援物資を運び込めないし、脱出できない

だが、戦国期にこの城での攻防はないらしい


まあ、何よりもよく200年もの間、京極6万石という小藩で

よくこの城維持したよ 経費掛かったはずなのに

そして、現在も石垣の手入れ等

ホント綺麗に維持されてる


では

 

【城・城跡8】豊前|長野城(跡)

  • 2015.01.14 Wednesday
  • 21:36
2015年1月13日(火)

長野城(ながのじょう)〔福岡県北九州市小倉南区長野〕

のいの助評価:★★★★☆ 星四つ


城の由来は、諸説あるだし

詳しく知らないので、省略する

代々、長野氏が城主を務めていたようだ

同氏は、大内氏、毛利氏、大友氏、小早川氏

に属したようであり、長野城は小早川時代に

廃城となったとのこと


まずは、外観

んっ?



ぱっと見た目では、どこが本丸だか、主郭だか

分からない…

外観の写真は、最後に撮影したものなので

場所が分かったが、最初はどこに城跡が

あるのか、さっぱり分からなかった


山城好きの俺としては、もっと

ここに城跡あり、本丸ありって、

主張しているのが好きだけど…


まあ、さておき

長野の公園?前を脇道に入って進むと

まもなく、行き止まり

自動車を付近の空地に停めて

歩いて行くことに…



イノシシ、マムシ注意の看板

言葉だけでも恐ろしいのに、

図入り((((;゜Д゜)))

虫も怖い俺っちは、春、夏、秋は絶対に行かない

マムシに噛まれて、山から降りてくるまでに

多分、力尽きているから


ここは、真冬だから、勇気を振り絞って行くぞ

レッツらゴー!!



砂利道(林道)を歩いて進む

一人じゃ何か心細い…



少し明るいところに出た

歩くこと約20分弱ってところか



右手に「出丸→本丸」と書かれた標示板があった

見落とすところだった

あぶね〜

ここから、登ることに



直ぐにドデカい石が二つ!

この石は、歩いて来た林道からも見える

なんか、神聖な領域に踏み込んだみたいで

気味が悪い



尾根の上(たぶん…)を歩く

最近、誰か通った形跡がある


↓出丸跡





畝状竪堀があちこちに



そして、丸く大きな石が所々にある



本丸跡



↑主郭と思われる場所



本丸



こちらも本丸



本丸跡から麓を望む



本丸から二の丸へ向かう

畝状竪堀群

スゴイ数だ

↓これが二の丸だと思う

標識が見当たらなかったが、そうだと思う



そしてまた、畝状竪堀群を通って、やっと林道へ出た

こりゃ、訪れるの真冬で良かった

夏だったら、いろいろ大変だわ


林道を通って、来た道を戻っていると…



「二の丸入口」の標識があった

さらに、林道を下っていると、「出丸→本丸」の板があった

…なので、半時計回りにぐるっと尾根を回って

歩いたことになる


感想

この城は、居城というよりも、戦時専用の

詰城ではなかったかと思う

本丸は、少し平らになっているが、

後は斜面、竪堀、尾根しかないし、

建物の建てられるスペースがないから、

生活には不向き


外観は、個人的には好きではないが、

竪堀等遺構が手付かずに残っているので良い


訪れる方は、本当にマムシには注意してほしい

ホント時季によっては、出そうだ

プル((,,´Θ`,,))プル


では


 

【城・城跡7】門司城(跡)

  • 2015.01.08 Thursday
  • 19:40
2015年1月8日(木)晴れ  移動:徒歩

門司城(もじじょう)〔福岡県北九州市門司区〕

のいの助評価:★★★★☆ 星四つ


門司城跡の案内によると

門司城は、最初平知盛が源氏との合戦に備えて長門国目代紀井通資に築城させた1244年下総前司親房が平家残党鎮圧の下知奉行として、鎌倉幕府より豊前国代官職に任ぜられて下向
のち門司六郷と筑前国香椎院内などを拝領した
親房の子孫は地名により門司氏を称し、門司城を本城に領内に足立、吉志、若王子、三角山、金山の五支城を備えて一族が配置された
門司氏は、その後350年にわたって北九州の地に続いた
その間、南北朝時代には門司氏も両派に分かれ、当城には北朝方が拠り、一方南朝方は猿喰城に拠り、骨肉の争いもあった
室町時代になると、門司半島は豊後大友氏と大内氏、大内氏滅亡後は代わって毛利氏が争奪するところとなり、当城は渦中におかれた
ことに大友氏と毛利氏による永禄の門司城合戦は壮絶をきわめた
後太平記には「昔、源平両家此処にて軍せしも、時こそ替れ是にはよも勝らし」とその戦状を記している
その後、門司城は城主も入れ代わりながら続いたが、細川忠興の豊前入国後の1615年、一国一城令により、およそ400年におよぶ歴史をとじた

…とのこと


まずは、外観

普段よく見ているので、バッチリ押さえてる

どうだ 完璧!!



下関側からの状況



門司側からの状況

一番高い所が城跡



周辺の山に比べると小さいがなかなか険しい

傾斜もかなりのもの



城跡の下は、公園になっており駐車場もある

徒歩で10分弱だろう



門司城の案内



自動車も通れる路を登っていると、右手に古い階段がある

推測だが、脇道は門司城残存時代のものだと思う

まっすぐ登っても城跡に行けるが

脇道をあえて進む



倒木などあるが気にせず進む

脇道に入り100mほど進むと

明るくなってきた



もうすぐ、本丸だろう



本丸の周り

上が本丸跡




本丸側面の石垣跡





本丸跡の状況

広さは十分にある



石碑




これは砲台跡

明治時代に建設されたらしい



本丸跡から関門海峡を望む

毛利が海を渡るぞ

備えよ…


感想

山城では規模が小さいく、曲輪等の遺構がない

本丸側に石垣の一部を認めただけ


この門司城跡の山、何度も見てるが、現在公園になってる所に

二の丸、馬だし跡や屋敷など無かったのか、気になる


公園のある場所は、それらが余裕で建設ができるほど

スペースは十分

もし、下の画像の山(緑色)部分全体が城として機能していたなら

規模は壮大であるし、守りも堅固であったはず




では

【城・城跡6】松尾城(跡)

  • 2014.12.29 Monday
  • 19:44
2012年2月26日(日 )【移動:マイカー】

松尾城(まつおじょう)〔福岡県朝倉郡東邦村 所在〕

のいの助評価:★★★☆☆ 星三つ


東邦村HPから抜粋


松尾城は、戦国時代、宝珠山山城守という者の居城だったという。
東峰村宝珠山にある烏嶽城には、秋月氏の一族で郡士宝珠山遠江守という者が在城していたという記録があるので、松尾城主の山城守もその縁の者で、秋月氏の家臣だったと思われる。
当時、秋月氏は豊後の大友氏と攻防をくり返していたので、この城も幾度となく戦火に見舞われたことだろう。

天正15(1587)年、秋月氏が豊臣秀吉に降伏して、この一帯は秋月の支配から離れたため、山城守は、その後は小早川隆景やその子秀秋へと臣従した。
慶長5(1600)年、黒田長政が関ヶ原の戦いの功によって豊前中津から筑前に入国した後は、黒田の支配下となり、慶長6(1601)年、黒田長政は福岡本城の築城と同時に国境防衛のため6ヵ所に出城を設け、それぞれ重臣を配して守備につかせた。

とのこと



外観はまた今度…

さて、松尾城の登り口




ふむふむ、そうですか〜



登ること数分

山城でも小規模の山城なので楽々♪

城郭が見えてきた

もう主郭?



やっぱり主郭だった

二の丸、本丸はない



主郭入口

虎口

というそうだ

入口の石垣は一部崩壊している

崩壊した石垣には、切り出し時の

石ノミの痕が残っている

こういう痕跡も好き



案内板を見る…



主郭下段の状況

ほんと綺麗に整備されている

芝生が敷き詰められているようだ




ここは櫓台跡



櫓台付近から虎口側を見た状況



下段に石ころが…

お決まりのあれ

基礎石

この石の上に建造物を建てた



主郭の北側の状況

北側は深い谷になっている

急な斜面には畝状竪堀が認められる

武具を着けてこの斜面を登るのは

困難だろうな〜



望遠できるのは英彦山方面



南東側の状況



南西側の状況



南側の曲輪跡




上段から主郭の縁を見る

ほんと綺麗だね

宅地にしてもいいかも

でも、ここは城跡…

夜な夜な(;¬_¬)ものが出そう



北側の石垣の状況



西側の石垣



南側の石垣



南側斜面の状況

北側よりも若干緩やかに見えるが斜度はある


感想

小規模や城だったが、

石垣、竪堀、曲輪が綺麗に残存している

個人的には、守りには不向きなので

戦用の城ではなく

行政上の城であったように感じた


では


 

【城・城跡5】立花山城(跡)

  • 2014.12.23 Tuesday
  • 20:44
2012年2月25日(土 )【移動:マイカー】

立花山城(たちばなやまじょう)〔福岡県糟屋郡新宮町ほか 所在〕

のいの助評価:★★★★☆ 星四つ


言わずと知れた大友家家臣

立花道雪(たちばなどうせつ)

別名

戸次 鑑連(べっきあきつら)

の居城

立花山は、福岡近郊のハイキングコースとして有名

でも…

福岡市民は、戦国時代に豊後(大分)の大友家に博多を

支配されていたのをあまり知らない

でもって、立花山に城があったこともあまり知らない

ハイキングしている人は、ここに城があったんですか!?

ってな感じ


立花山城の成り立ちは、さておき…


外観なし

また、今度行ったときに




登山口は何ヵ所かあるのだろうが

今回は、福岡県新宮町の梅岳寺側から登る

登山者用の専用駐車場あり



登口には、案内の掲示板あり

フムフム

登ること30分弱

途中、かなりキツい (/。\)

でも、4歳位の子供も登っているので余裕みたいな顔をする

日頃からトレーニングが必要と実感する



何か空が明るくなってきた

もう頂上か



やっと、着いた

ここが、本丸だと思う




本丸跡は、真っ平らではないが、山城にしては結構広い

ここにどんな建物が建っていたのだろうか

立花山は眺めが良いのも有名で

福岡市街を一望できるが…



西側の博多方面

視界悪すぎ (。>д<)

pm2多し…



北側の状況

視界が良ければ、画像左側に名島城が見えるのだが



北東側の状況



本丸下には石垣跡が認められる

しかし、石垣はあまり整形されたようには感じられない

ここから、福岡城築城の際に石垣を移築したとか

スゴい労力だ



本丸の南には石碑があったが

どういった意味があるものなのか分からない

下山する際に井戸を見ることにした



井戸は本丸から少し降りた所

井戸は井戸でも平地にあるような深井戸ではなく

山の斜面を少し掘ったもの

靴の大きさから井戸に大きさ、深さも分かる…かな


今でも、井戸の中の砂を出せば立派な

水源として利用できるはず

道雪、宗茂、訐藺

もこの水を口にしたに違いない

うーん



下山して、道雪の墓所である

梅岳寺(ばいがくじ)へ

人気がない… 無人寺か?

道雪の実母と道雪の遺体が埋葬されている



道雪の墓石は、正面向かって右側で

中央は実母

左側は道雪の家臣である

薦野増時(こものますとき)

の物だとか…

あれあれ、どれが墓石なのか、よく分からん


また、来たときにゆっくり確認するとしよう



感想

立花山ここに登るだけでも30分掛かった

斜度も結構あった

戦国期は、武具や武器を身につけて登ったに違いない

大変だったはず


では

【城・城跡4】岩屋城(跡)

  • 2014.12.20 Saturday
  • 13:49
2012年2月26日(日)くもり 【移動:マイカー】

岩屋城(いわやじょう)〔福岡県太宰府市 所在〕

のいの助評価:★★★★☆ 星四つ


大宰府観光協会HPから抜粋

 

豊後大友家の武将である高橋鑑種(あきたね)によって築城された山城

 
岩屋城は16世紀半に宝満山城の支城として豊後大友家の武将である高橋鑑種(あきたね)によって岩屋山に築城された山城

九州制覇を目指す薩摩島津氏が1586年に岩屋城を攻撃、5万の大軍に囲まれてしまい、篭城したが、奮闘むなしく豊臣秀吉の援軍が来る前に陥落

当時城主であった高橋紹運は自害、全員討死した

しかし、島津軍は岩屋城の攻略に時間が掛かりすぎたため後ほど撤退
岩屋城が島津軍の九州制覇を止めた形となった

....とのこと


私の好きな武将の一人

立花宗茂

の実父である高橋紹運が

760数名の家臣とともに討ち果てた場所


外観なし (ToT)

また、機会があったら行くので…今度…






道路の空地に自動車停めて

歩くこと数分

本丸跡到着





この石碑は、超有名だ

ああ そうれつ 岩屋城趾 

ここで、討死した方々の子孫が建てたのだとか…



本丸の様子

広くはない

眺めはよい

ということは…

ここに籠城した際には

島津軍の陣の様子も伺えたはず




眺めは良好♪

視界は悪し…

もっと景色が良ければ、宝満山の方もよく見えるのだが…



曲輪の様子

この曲輪でも多くの血が流れたに違いない



本丸の一番高いところに登ってみる

島津軍いざ!!

石垣跡か!?

分からない





本丸を降りて、二の丸へ

ここには高橋紹運と家臣のお墓がある

合掌


感想

岩屋城は、孤立した山にあるのではないので

大友軍と島津軍と対峙したとき、勢力の差から

不利とみるや

城を放棄し、戦線を離脱することは容易であったはず

でも、みんな玉砕した


ここに
高橋紹運の意地とプライドが出てしまった

そして、この根性が宗茂に引き継がれたんだろう

う〜ん


では


 

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